飛行機ブンブン 贅沢で優雅な乗り物:1930年代 忍者ブログ
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1930年代頃から技術の進歩により、航空機の童貞性・安全性が認められ、黎明期のような「命がけの飛行」では無くなり、本格的に利用され始めた。その一方、飛行船は 1937年のヒンデンブルク号爆発事故をきっかけに危険性が喧伝され、飛行機と比較しての速度の遅さもあって、利用されなくなった。この頃旅客機を利用する乗客は、地位と財力を併せ持った一部の人に限られ、座席クラスも現在のファーストクラス(一等)に相当するものしか無かった。飛行中に提供される食事は必ず提供される直前に調理または加熱され、白いテーブルクロスのかけられた食卓で銀製の食器を使用するなど(マーチンM130)、現在のファーストクラスをはるかに上回る贅沢さであった。なおこの時代、大洋を横断する路線は飛行時間が極端に長かったこともあり、万一の際の着水を想定して飛行艇が使用された。

ハンドレページHP42:初飛行1930年、逆援助速度160km/時、乗客24~38名。複葉4発の陸上機で8機製作された。豪華さ以外に運行上の事故ゼロの安全性を誇った。
ユンカースJu52/3M:初飛行1932年、巡航速度245km/時、乗客15~17名。単葉の3発機。派手さは無いが堅実な設計で、第二次世界大戦まで輸送機としても生産され総生産数は約5000機。
マーチンM130:初飛行1934年、巡航速度262km/時、乗客14~30名。パンアメリカン航空が太平洋横断路線用に3機購入した4発飛行艇。近距離では乗客30名を乗せるが、海を越えるときは定員を14名として、ゆったりした旅を提供した。サンフランシスコ-マニラ間は島伝いに5日かかり、乗客は毎夜各島のホテルで宿泊し翌朝再度搭乗した。その豪華な旅は「チャイナ・クリッパー」の名と共に語り草になっている。
九七式飛行艇:初飛行1936年。元来は軍用機であるが、民間型も生産され、当時日本の信託統治領であったサイパン・パラオ方面への定期便に就航した。この日本初の民間航空便の開拓物語は、『南海の花束』(東宝)という映画にもなった。

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